会津三十三観音
会津美里町には会津三十三観音のうち、21番札所から30番札所までの10の札所があります。
第21番札所 左下り観音
建立以来1,000年以上といわれる左下り観音堂は、別名「くびなし観音」とも言われ、造りが京都の清水寺に似ています。山の中腹にある岩を切り開いて構築した見事な三層閣で、樹齢数百年の老松の小道をしばらく進むと、京都の清水寺にも似た三層のお堂が見えてきます。観音堂には、観音(くびなし観音)が安置されています。
会津藩の教育文化に尽力した学僧如黙がここに住み花月を友としたところと伝えられています。
御詠歌「左下りは 岩に聳えて懸造り いつも絶えせぬ 峯の松風」
第22番札所 相川観音
いぼ観音とも言われ、祈願するといぼがとれるといわれています。向羽黒山峰続きの麓にある昔の御堂を、今は古観音と呼び、清水が湧き出ています。
本尊の木造十一面観音立像は、昭和49年に町重要文化財に指定されました。
宝永6年(1709)に、高橋宗元、吉川浄雲という二人の隠者が会津巡礼のとき御開帳を乞い、尊像を拝した際に、損傷の甚だしいことを嘆き悲しみ、菩薩再興の願主として観音講を起こし、程なく仏体を補修することが出来ました。
また、堂宇は境内もせまく、村から遠く離れているため、朝夕の法燈も怠たりがちであるので、近くの勝地を撰んで本堂建立の大願を立て、浄財を募り、更に若松方面の諸氏の篤志を得て、享保2年(1717)の秋、8年の歳月をかけて僧梁山の代に現堂が再建されました。本尊安置にあたっては、若松の東山天寧寺住職融元和尚を導師として、村中総出で二夜三日の入仏供養を行ない、鎮護国家、五穀豊穣、横道消滅、福寿増長を祈祷して観音菩薩の大恩を法謝したといいます。
御詠歌「朝日射す 夕日輝く相川の 月諸共に 出づる御手洗」
第23番札所 高倉観音
高倉観音は、後白河天皇の第2王子、高倉宮以仁王が平氏
御詠歌「高倉は 宝を積みし山なれば 人の願いも 満つる高倉」
第24番札所 関山観音
下野街道の駅所として栄えた関山の集落にある観音堂です。荘厳な十一面観音菩薩は一生に一度だけの願いをかなえるといわれ信仰されています。
御詠歌「散る花を 止むる氷玉の関の山 雲降り登る 道は一筋」
第25番札所 常楽寺(領家観音)
常楽寺は美濃国の旅僧、常延によって建長元年(1249)に創始されました。16世紀半ばには30貫文の寺領を持っていましたが、蒲生の時代に失いました。現在は、本堂はなく、天保2年(1831)建立の観音堂のみが残り、十一面観音座像が安置されています。
御詠歌「朝日射す 夕日輝く領池の 大悲の光 有明けの月」
第26番札所 福生寺(富岡観音)
福生寺観音堂は国重要文化財に指定されています。建立時期を示す棟札はないものの、文安3年(1146)の巡礼札が発見されており、会津中世建築の貴重な遺構とされています。像高約220cmの大きな十一面観音菩薩坐像が祀られています。
御詠歌「朝ぼらけ 賑わう里に立つ煙 誠の人を 止むる富岡」
第27番札所 仁王寺(大岩観音)
徳一作の聖観音があります。
御詠歌「山深み 池に流れの音添えて
浮世の夢を 洗う松風」
第28番札所 天王寺(高田観音)
天王寺の十一面観音像は、人肌観音とも呼ばれ、仏体に温もりを有しているといわれています。33年に1度御開帳の秘仏です。58代光孝天皇の皇子・観祐法印と縁のある観音像といわれています。戊辰戦争時に堂宇は灰燼に帰しましたが、明治初期に、現在地に立て直されました。観音堂は火災を防ぐため、珍しい土蔵造りとなっています。
御詠歌「昔より 立つとも知らぬ天王寺 奥の細道 轟きの橋」
第29番札所 法用寺
法用寺観音堂内には、記年銘が明らかな会津最古の厨子(国重文)が安置されています。本尊の十一面観音立像は、総高2メートル、左手に水瓶、右手に錫杖と「観音地蔵合体」姿の荘厳な観音像であったといわれていますが、かつての火災で焼失し、現在は火中仏として安置されています。現在は、残された版木からその壮麗さを伺うことができます。観音堂内には、金剛力士像(国重文)も安置されています。
御詠歌「巡り来て 西を遥かに眺むれば 雨露繁き 古方の沼」
第30番札所 弘安寺(中田観音)
会津コロリ三観音のひとつにも数えられる弘安寺は、「中田の観音様」と呼ばれ、会津地方の多くの人々の信仰を集めています。
会津地方出身で、世界的な医学者として知られる野口英世の母・シカもこの観音様を信仰し、英世とともに参拝したと伝えられています。
堂には、銅造十一面観世音菩薩、脇侍不動明王、地蔵菩薩立像の三体が収められており、これらは、東北地方でも珍しい、鎌倉時代の鋳像として、国の重要文化財に指定されています。
御詠歌「めぐりきて よものちさとをながむれば これぞあいづの なかだなるらん」
番外 浮身観音(龍興寺)
浮身観音は徳川家康・秀忠・家光に仕えた天海大僧正と縁の深い観音様です。永禄2年(1559)に船木兵太郎(後の天海大僧正)が12歳の時、霊夢によって浮目というところの水田より土仏観音像を発見。後にこの土仏を模して木造の観音像をつくり、胎内に土仏を納め祀ったとされています。浮身観音は、会津三十三観音の番外ですが、現在は龍興寺境内に浮身観音堂が建立され、人々の参詣が絶えません。
御詠歌「浮き身をば 助け給へや観世音 みちびき給へ みだの浄土へ」


